私にはこんな佐那河内村であってほしいと願う夢がある
住んでて良かったと思える村であること
帰ってきたいと思える村であること
何があっても心配するなといえる村であること
メッセージ
いわさ洋介の決意
住んで良かったこの村に。
佐那河内村に住んで 8年目。
佐那河内に来る前は東京でサラリーマンをしていました。睡眠時間を削り世界中を飛び回り追い立てられるように競争社会の中で働いていました。今の暮らしは180度反対と言えます。佐那河内村に住んで8 年目。コメ作り、野菜作り、家の改修、水道の維持管理などすべてが私にとって初めての経験で、体験したり学んだりする楽しさを味わせてもらいました。佐那河内に住んで本当に良かったと思います。
小さな自治体だからこそ声が届く。
変わったのは生活のスタイルだけではありません。都会では自治体の規模が大きすぎて政治との距離も遠く、政治を意識するのは選挙の時だけでしたが、佐那河内に来て行政や政治の話題がとても身近で関心を持つようになりました。そして気が付いたことは、小さな自治体だからこそ自分たちの声を政治や行政に届けやすいということでした。
村の未来を考える。
一方でこの8 年の間、新しい役場の庁舎は完成したものの村が抱えている根本的な問題に解決の突破口は見つけられず、人口は減り続け少子・高齢化は急速に進んでいます。また環境破壊から起こる大規模自然災害の増加、戦争やコロナなど数年前までは想像もしなかったような環境変化も加わり、昔からのやり方を維持していくだけでは村の未来が描けなくなっています。
村民の皆さんがこの村に住んでて良かったと思えるように。
これからは、先人が守り築き上げてきた村の財産(自然環境、自治の風土、コミュニティなど)を守りながらも、村に新しい価値を加えていくことが必要だと思います。その新しい価値とは、村の抱える人口減少や少子高齢化という問題に対応すると同時に、村民の皆さんが本当にこの村に住んでて良かったと思える価値でなければなりません。商品企画という「思いをかたちにする」仕事をしてきた私の経験が今こそ活かせると信じています。一緒に村に新しい風を吹かせましょう。
政策提言
こんな時代だからこそ楽しいことを夢みよう!
村の将来を描く為の必要条件と十分条件
子育て世代の移住を増やす
住んでて良かったと思える村であること
安心して子育てできる村
- 養育費、食費の負担軽減
- 子育ての悩みを相談できる場所の提供
- 子ども連れにやさしい場所づくり
いざという時に頼りになる村
- 主食類の自給率100%を維持するための仕組みづくり
- エネルギー自給率の向上
- エネルギー消費量の低減
- 電動車両の導入
- サバイバル技術を学べる防災訓練×村民体育祭
子供たちが自分の
好きなことを見つけられる村
- 都市部の学校じゃ真似できない地域の特性を活かした教育環境の提供
- 村塾づくり
- 佐那河内版13歳のハローワーク
みんなでつくる活気のある村
- 村外から遊びに来てもらえる仕掛けづくり(ゆるスポーツ大会、カレーフェスタ…etc)
- 村内で遊べる場所づくり(outdoor & indoor adventure park 構想)
- 誰でも提案制度(やりたいことを実現するためにサポートする仕組みづくり)
開かれた村
行政と村民の距離をもっと近く
- スマートフォンやパソコンが使える層、使えない層それぞれに向けた双方向の意見交換の場の定期的開催
- 情報公開の障害となる条例の見直し
進化し続ける村
- 村の将来を考える役場に活力を。
公正でスピード感ある仕事を目指す - 人財を適所に配置
- 時代の変化に適応した組織の検討(60年間変わっていない組織形態の見直し)
先人やこの村で生まれ育った皆さんが
この村の営みを守ってきてくれた努力に感謝します
この土台の上に、次の世代に引き継げる
新しい価値を生み出します
プロフィール
いわさ洋介を知る
基本情報
既婚。妻は金融関係勤務。
趣味
山登り、NHK 語学講座(仏語、西語)、コメ作り
好物
ごはん、たくあん、みそ汁、コーヒー
「あなたが普段から食べているものを教えて欲しい。あなたがどんな人であるか、当ててみせよう」
サバラン
尊敬する人物
■中村 哲(医師)
アフガニスタンで医師でありながら農業用水事業を完成させた。2019 年12 月反政府勢力に襲撃され一命を落とす。
■ マハトマ・ガンジー
インドを植民地支配から解放するために非暴力・不服従の原則を徹底的に実行しイギリスからの独立を勝ち取る。「マハトマ」とは「偉大な魂」という意味。
■ ホセ・ムヒカ
ウルグアイの第40 代大統領。月1000 ドルで暮らす世界一貧しい大統領。
1960年3月
神戸市で生まれる。3人兄弟の末子。
1972年
昭和47年 関西学院中等部に入学。以降大学まで10年一貫教育。
同体育会サッカー部に10年間在籍(大学2年時夏のインカレ出場)
1982年
関西学院大学 法学部法律学科 卒業。関西学院のスクールモットーは、“Mastery for Service”
「奉仕のための熟達」校章の三日月は、私たちは今あらゆる面で不完全な者であるが、新月がしだいにふくらんで満月となっていくように、絶えず向上していきたいとの願いをこめられている。関学での学びが後の人格形成に与えた影響は大きい。
1982年
日産自動車に入社。国内営業部門からスタートし、様々な部門を経験。1999 年フランス・ルノー社との提携後は、商品企画部門の責任者として世界中のマーケット向けのプロジェクトを担当。仕事とプライベートで訪れた国は25 か国を超える。
多くの国々の人々との仕事を通して、その国の文化や慣習など真にグローバルな学びの期間であった。
2013年
日産自動車を早期退職。トレーラーで日本一周の旅をした後、岩手県釡石市で1 年間の震災復興支援の手伝い。
2015 年9月
佐那河内村に移住。(父方の祖父が徳島生まれ)すだちのお手伝い、柑橘のお手伝い、ニンジンのお手伝いなど一次産業のお手伝い以外はやらないことに決めてます。あとの時間は、自分でお米を作ったり、野菜を作ったりして暮らしています。